転職は上手くいったのだろうか 私が出会った30代半ばで事業を潰したおじさんの話

20歳の私が初めて一人で乗った国際線のフライトは、大韓航空だった。
日本からロンドンへ向かう格安フライトの中でも、ソウル経由便が一番安かったからだ。

当時は記録的な円高水準の影響もあり、気軽に海外へ出かける日本人は今よりも遥かに多く、私が乗った便の乗客もほとんどが日本人だった。
そのため、機内のアナウンスは日本語でも流れ、韓国人キャビンアテンダントたちも日本語で接客してくれる。
留学しようというのに、これといった準備をしてこなかった私の英会話力は低く、機内で日本語が通じることに少なからずホッとしていた。言葉の苦労は、ひとまずヒースロー空港に降り立つまで先延ばしにできそうだ。

ソウルからロンドンまで10時間以上もかかるフライトでは、初めのうちこそ機内のオーディオで音楽を聴いたり映画を見たりしていたけれど、3時間と経たないうちに飽きてしまった。
乗り物の中で小さな字を読むと酔いやすくなる為、本のたぐいは持ってきていない。ジャンボジェット中央列の席では外も見えず、窓から空を眺めて時間を潰すこともできなかった。
ずっと寝て過ごせればそれが一番楽なのだろうが、これから異国で始まる新生活のことを思うと眠れそうにない。日本を出るまでは胸いっぱいに膨らんでいた期待と高揚は、いつの間にか不安と緊張に変わっていた。

飛行機には私と同世代の女の子たちも大勢乗っていた。もちろんロンドン自体も人気の観光地だったけれど、ロンドンを経由してパリやミラノへブランド品を買い漁りに行くツアーが流行していたからだ。これも円高の賜物だろう。

どうにもならない不安と暇に一人で潰されそうになっているより、楽しそうに盛り上がっている買い物ツアー客の輪の中に自分も混ぜてもらいたかったが、通路側の席に座る私の隣に居るのは、残念ながら同世代の女の子ではなく30代半ばの男性だった。

「う〜ん、オジサンか。今回はハズレだな」と思ったけれど、他にどうしようもないので彼に話しかけてみることにした。袖振り合うも多生の縁だ。邪魔をしても迷惑がられない自信はあった。
これまでも、新幹線やフェリーなど一人旅の乗り物の中で、暇を持て余せばいつもこうして時間を潰していた。隣の席に座った相手に話しかけ、彼女もしくは彼が旅する理由を聞き出すのだ。

幸いにして、話しかけた相手から嫌な顔をされたり、席を移られたことは一度も無い。
相手がお喋り好きの女性であれば、嬉々として旅物語を披露してくれたし、相手が男性の場合なら、訥々と旅する事情や胸の内を打ち明けてくれた。
そうやって、赤の他人だからこそ気軽に口を滑らせてくれる物語に耳を傾け、目的地に到着すれば連絡先を聞くこともなく、話し相手になってくれたお礼を言ってさよならをする。

「こんにちは。実は私、一人で海外に行くのは今回が初めてなんです。もし何か分からないことがあった時は手伝ってもらえませんか?」

突然話しかけられた男性は驚いた顔をしたけれど、すぐに顔を崩して

「いいよ」

と承諾してくれた。

「でも、俺も自信ないけどなぁ」

どうやら彼は全く英語ができないらしい。頼みの綱はガイドブックの「地球の歩き方」だと言う。
それでも海外旅行には慣れており、イギリスへは私と同じで留学が目的だと話してくれた。仕事もそれまでの生活も全て清算し、ロンドン郊外の学校で新しいスタートを切る予定だそうだ。

「留学ですか?へぇ…」

30代半ばからの語学留学が悪いわけではないが、男性には珍しいので訝しく思った。
背負うものがなく身軽な女性の場合なら、様々な理由で人生に行き詰まりを感じた人たちが留学し、心機一転を計るケースをしばしば見かけたが、それくらいの歳で語学を学ぶ男性はほとんどが駐在員であり、留学生はほぼ見ない。

彼は黙っていると落ち着いて見えたが、いざ口を開くと年齢の割には若いと言うか、軽薄な印象を受けた。

「ふぅ〜ん、仕事って何をしてたの?」

この手の男性は若い女の子と話す時、敬語を使われるより同世代の友達であるかのようなタメ口の会話を好む。こちらが不躾に振る舞うほどに、それをポジティブに解釈して喜ぶと心得ていたので、私はあえて馴れ馴れしい口をきくようにした。

「東京の不動産屋だよ。親の代からの」

「あっ…」

「どうして仕事をやめてきちゃったの?」という質問は続けなかった。辞めたんじゃなくて事業が潰れたのだ。新聞を読んでいなくても、バブル終焉後の不動産業がどういう状況にあるかくらいは知っていた。
株のバブルが弾けたのは私が中学生の頃だったが、不動産価格の下落が始まったのは高校生の頃だった。それから少しばかり時間が経っていたけれど、土地バブルの崩壊は株の時ほどドラマティックでは無かったので、彼の商売は数年の時間をかけて首が締まっていったのだろう。

私が子供だった頃、男女が集団でお見合いをする人気バラエティ番組があり、男性で一番人気の職業は医者でも弁護士でもなく不動産屋だった。
男性が、

「仕事は不動産屋です」

と自己紹介すると、司会者と女性陣から「おぉお〜」とどよめきが上がったものだ。あの頃の不動産屋と言えばお金持ちの代名詞だった。

「すごいね。お金持ちだったんだ?」

今の彼は格安フライトのエコノミー席に乗っているという現状を無視して尋ねると、

「そうだよ。あの頃は本当に楽しかったなぁ。仲間達と毎晩ディスコのVIPルームで遊んでた」

と無邪気な答えが返ってきた。私の世代でディスコといえばヴェルファーレだが、彼の世代ならマハラジャだろうか。

「VIPルームに可愛い女の子たちをはべらせて、呼びつけた黒服にウィスキーを一気飲みさせるんだよ。ウィスキーを2cmくらい注いだグラスをテーブルにたくさん用意させてさ、そのグラスに1万円札を突っ込むだろ。
それで、『中の諭吉はチップだ。飲んだらやる』って言ったら、みんな喜んで飲む。そうやってガンガン飲ませては潰してたねー。
車はもちろん左ハンドルのオープンカー。ディスコの帰りには女の子を乗せて、見送りの黒服が並んでるところへ万札をバッと撒いてやるんだよ。めちゃくちゃ愉快だった」

あまりにも明るく屈託ない調子で喋るので、不思議と嫌味には聞こえなかった。彼にとっては心から楽しい思い出なのだろう。

「そんな風に使っても使っても追いつかないくらいの金が懐に入ってきてたんだよ。でも、続かないもんなんだな。続かないなんて思ってもみなかった。今は何にも残ってないよ」

私は自分が経験しなかった狂乱の時代を想像してみた。その時代に下品な振る舞いをしていたディスコのVIPは、きっとこの人だけではないのだろう。

「これからどうするの?」

「そうだな。まだ何も分からない。とにかく一から出直そうと思ってる。先ずは英語を勉強してみるのも悪くないよ。仕事は、そのうち何とかしなくちゃな」

彼は私を見ていなかった。私を相手に話しているようでいて、自分自身と話していた。

彼の思い出を一通り聞いてしまうと、私たちは少し眠り、目を覚ますともう飛行機を降りる時間になっていた。けれど、私はまだ彼にさよならを言わずにおいた。
心細い気持ちは続いており、無事に到着ロビーに出るまでは彼を頼りにするつもりだったからだ。
それなのに、飛行機を降りるなり彼の顔はみるみるうちに強張り始め、まるで追われているかのように急ぎ足で先へ先へと進むため、入国審査の前に私は置いて行かれてしまった。

「何だよ。手伝ってくれるんじゃなかったのかよ」

落胆したが、彼もきっと自分のことで精一杯なのだろう。仕方がなく入国審査は大韓航空のスタッフに助けてもらい、どうにか一人で荷物の受取所まで辿り着いた。

最後にもう一度、彼の姿を探した。
退屈だった機内で話し相手をしてくれたお礼とさよならを、きちんと伝えて別れたかった。そして、「これから頑張ってね」も。

…言えなかった。人混みの中に彼の姿を見つけることはできたけれど、大きなキャスター付きスーツケースを転がしながら出口へと急ぐ彼は、もう周りが一切見えていない様子で声がかけられる雰囲気じゃない。和やかにお喋りをしていた時とはまるで別人だ。
何かから逃げているような後ろ姿を見送りながら、「あの人、大丈夫かな」と少し心配になった。

仕事も生活も何もかも綺麗に整理してきたと話していたけれど、本当だろうか。向学心がありそうなタイプには見えなかったから、英語の勉強だなんて日本から逃げるための口実に過ぎないんじゃないだろうか。
右肩上がりの豊かな時代に青春を送り、努力しないまま親の商売を継いで、何もしなくても大金が転がり込んでくる生活をしていた彼は、これから変わることができるのだろうか。
一から出直すと言っていたけれど、もう若くない彼に一体どんな仕事ができるのだろう。

ちゃんと挨拶できなかったことは残念だけど、私も他人の心配をしている場合ではない。気を取り直して出口へと急いだ。

あれから、「失われた10年」「失われた20年」「失われた30年」と年月を加算しながら、その後の日本は失われ続けている。彼が話してくれたような、日本中が熱に浮かされた時代が戻ってくることは二度と無い。
けれど、ITバブルやFX、仮想通貨など、小さなバブルは局地的に起こり、膨らんでは弾けている。
そして彼のようなバブルに踊る人たちも繰り返し現れて、持て囃されては消えていく。

世紀が変わっても元号が変わっても、バブルで大金を掴んだ人たちの生態はほとんど変わりがないように見える。贅沢と無駄遣いと狂乱はいつだってバブルの華だ。

私はメディアでそういう人たちが取り上げられるたびに、機内で出会った彼のことを思い出す。果たして彼は転身に成功し、人生をやり直せたのだろうか。今はどうしているのだろうかと。


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【著者】マダム ユキ
ネットウォッチャー。最高月間PV40万のブログ「Flat 9 〜マダムユキの部屋」管理人。
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