1990年代が幕を開けたあの頃に、資格の重要性が分かっている高校生なんてどれほど居たのだろうか。
少なくとも私は分かっていなかった。むしろ、「資格なんて取るだけ無駄だ」と、バッサリ切り捨てていたほどだ。
分かっていなくて当たり前だ。まだ16歳やそこらで一生を見据えた選択などできるはずがない。
それなのに、選択科目は何を取るのか。文系と理系どちらのコースに進むのか、国公立大受験クラスに入るのか、それとも私大受験に絞るのか、一般受験対策をするか、推薦を狙っていくのか。
考えるための判断基準を持たないのに、そんなことはお構いなしに「自分で決めなさい」と次から次へと選択を迫られる。
大人たちの意見を参考にしようにも、あの時代に過干渉の親は珍しく、高校の先生方による進路指導はおざなりだった。
当時の大人たちが今ほど子供の進路に口を出さなかったのは、まだ「1億総中流」と言われた時代で、職種による貧富の差が今ほど目立たず、何をやってもそれなりに食べていける時代だったからだ。
だから子供がどういった道を選ぼうとも、「まあ、何とかなるだろう」と気楽に構えていられたのではないだろうか。
私は進路選択に関してほとんど放任されていたが、友人たちも似たようなものだった。
女の子だから、という理由も大きいだろう。
今では信じられないことだが、当時の女性たちはクリスマスケーキに例えられ、25日を過ぎると見切り品として安売りされるケーキのように、25歳を過ぎれば大きく価値が下がると言われていた。
要するに、大前提として女の子の人生は結婚がゴールだったのだ。
主婦になった後では、仕事をすると言ってもパートに出るのが関の山なのだからと、女の子のキャリアプランは長い目で考えられていなかった。
私個人は女に生まれて損をしたと感じることもなければ、男であったならと願ったこともない。けれど、女性は男性よりも時代の空気や社会情勢に影響を受けやすく、新時代に合った生き方をしようにも、旧世代の考え方や価値観に翻弄されやすいように思う。
「しっかり勉強して良い仕事を見つけなさい」
と口うるさかった親が、いざ大学を卒業すると
「仕事なんてどうでもいいから、早く孫の顔を見せなさい」
と言い始める。
「女は25歳までに結婚しなければならず、結婚か妊娠のタイミングで仕事は辞めるべし」
と社会に圧力をかけられていたかと思えば、
「結婚して子供を産んだからといって、ずっと家に居てはいけない。これからの時代は女も外で働き続け、輝かねばならない」
と求められる。
「大学を出たのに、専業主婦で子育てに専念してるだなんてもったいないわね」
と周囲に言われて働き出せば、
「旦那さんのお給料で暮らしていけないわけじゃないのに、まだ小さい子供を預けて働くなんて子供が可哀想」
と責められる。
そんな相反するメッセージを一度機に言われれば、誰だって混乱する。そうしたプレッシャーに悩まされた結果、子育て中の主婦は家に居ながら収入を得られると謳う在宅ワーク斡旋商法に引っかかり易いのだ。
同じ社宅に住んでいたママ友の麻衣子さんもそうだった。
麻衣子さんは、
「私は専業主婦でいるのは嫌。働いて自分の収入が欲しい。でも、夫はいつ海外赴任になるか分からないし、子供は保育園に預けず、家で育てて欲しいとも言われてる。
だから在宅で出来る仕事をしようと思って、翻訳の勉強を始めたの」
と話してくれた。
彼女によれば、その通信講座は修了後に仕事が紹介される仕組みで、自宅にFAXが1台あれば、どこででも仕事ができるということだった。
その講座が60万円もすると聞いた時、私は嫌な予感がした。
恐らく期待していたような仕事の紹介は無いだろうし、仮に翻訳の仕事がちらほら流されてきたとして、およそ労力に見合わない代金しか振り込まれないのではないだろうか。
麻衣子さんは張り切って勉強し、FAXも購入していたが、結果は私の予想通りとなってしまった。
当時、「後で仕事を紹介するので、必ず元が取れます!」と宣伝し、高額な受講料を取る通信講座が増えていた。けれど、実際には仕事の紹介などほとんど無いか格安の下請けにされるだけで、トラブルになるケースも多かったのだ。
翻訳家を諦めた麻衣子さんは、その後第2子を出産したこともあり、しばらくは就労を諦めていた。
彼女が社会復帰したのは、ひょんなことがきっかけである。
私が知人から購入した基礎化粧品が思いのほか良かったと褒めたことから、麻衣子さんはその化粧品ブランドに興味を持った。近所にもそのブランドの営業所があったので足を運んだところ、そこの所長から「ぜひうちで働かないか」と熱心に誘われたというのだ。
私はまた心配になった。
その化粧品ブランドでは、営業所で働くといっても雇用されるわけではない。業務委託された個人事業主として、そのブランドの商品を自ら開拓した顧客に対面販売するのだ。当然、給料は売上に応じる歩合制のため、収入は不安定だ。
扱っている商品の質は確かに良いと思うが、高額なので購入できる人は限られる。何事につけ控えめな麻衣子さんに、はたして高級化粧品の訪問販売など務まるのだろうか。
私がそうした懸念を口にすると、
「それがね、ノルマなしで、少額だけど基本給が出るコースがあるの。所長も、今は人手が足りてないから、化粧品を売らなくてもエステティシャンとして働いてくれればいいと言ってくれてる。
しかも、エステはなるべく下の子が幼稚園に行ってる時間帯にしてくれるそうだし、預けられない時には子連れで来てもいいそうなの。
私はこの仕事でお金を稼ごうとは思ってない。ただ、もう一度働きたい」
と訴えた。
家以外に居場所があり、子供とママ友以外に話し相手が居るということが、彼女にとって大切なことだったのだろう。
麻衣子さんは2年ほどそこでエステの仕事を続けたが、夫の海外赴任を機に、また専業主婦に戻ってしまった。海外駐在員の妻には労働許可が無く、現地で働くことはできない。
彼女は観光と噂話に明け暮れる駐妻コミュニティで窒息しそうな時間を過ごした後、やっと日本へ帰国する頃には、既に40代も半ばになっていた。
子供たちはとっくに大きくなり、やっと時間ができて好きなだけ働ける環境が整ったわけだが、麻衣子さんが再就職を目指す気持ちは既に萎えてしまっていた。
もったいないなと思う。麻衣子さんは4年制大学を卒業し、容姿も若々しく可愛らしい女性だった。
結婚前の仕事は秘書だったのだ。なのに、その知性も経歴も活かせないまま20年もの月日が流れ、その間にキャリア構築への意欲や自信はすっかり失われてしまったのだ。
麻衣子さんや私のように、これといった資格を持たない女たちは、一度家庭に入ってしまうと社会復帰が著しく困難になる。
けれど、私たちが苦労する一方で、子育てが一段落するやいなや軽やかにキャリアへの道へと戻って行ったのは、国家資格の保有者たちだ。
私と麻衣子さんが住んでいた社宅のママたちは、なんと半数以上が薬剤師資格を持っていた。そこが製薬会社の社員寮で、社内結婚が多かったためだ。
結婚前には配偶者と同じ会社で働いていた彼女たちは、結婚すると退職し、子育てに注力した。自身も高学歴である故か子供の教育にも非常に熱心で、塾や習い事も全力でサポートする。
彼女たちに
「仕事をしたくないのですか?」
と聞けば、ほぼ全員が
「今は子供と居たいから」
と答え、子育てに全力投球する生活に何の不満もない様子だった。
「勉強していい大学に行って、薬剤師免許まで取っているのにもったいないな」
と当時の私は思っていたが、まるで分かっていなかった。
彼女たちはいい大学を出て、国家資格を持っているからこそ焦る必要がなかったのだ。
資格を持つ彼女たちは子育てが一段落すると、何年ブランクがあろうと何歳になっていようと、全員が何の苦もなく再就職していった。
しかも高待遇と高給で迎えられており、勤務日数や勤務時間が少なくても収入は多い。
そんな風に、再就職や転職を軽やかに決めていくのは薬剤師のママたちだけではなかった。ふと周りを見渡せば、看護師資格を持っているママたちも、「そろそろ働こうかな」と言った途端に皆すんなりと再就職先が決まっていく。
薬剤師や看護師には専用の転職エージェントがあるので、転職も簡単だ。
もし再就職先が合わなければ直ちに次の転職先を紹介してもらえるため、自分の条件にあった職場を見つけられ、仕事とプライベートのバランスも取りやすい。
私や麻衣子さんのように資格を持たない者が味わう苦労とは無縁なのだった。
若い時には気づかなかったが、国家資格を持っているママたちと持たない私たちとでは、最初から立ち位置が違っていたのだ。
私自身は、自分のしてきた選択に後悔はない。と、言い切るのは若干嘘が含まれるだろうか。
悔やんだところで今更どうしようもないと分かっているから諦めているだけで、もしも人生をやり直すことができるなら、国家資格をとっておきたいと思うのが本音である。
私と同じ時期に子育てをしてきた母親たちは、皆が少なからず私と同じような例を見聞きしてきたに違いない。
私にも進路を選択する年齢になった娘が居るが、周りを見れば、娘に「資格を取れ」と助言する母親たちが多いことに驚かされる。
今の親は口うるさい。過干渉だと言われるかもしれない。けれど、就職して自立しただけではいっぱしの女とは認められない。結婚して子供を産み育ててもまだ十分ではない。
「家庭も子供もキャリアも、全てを両立させろ」と追い立てられてきた私たちの世代が見てきた現実と苦労が、そう言わせるのである。
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【著者】マダム ユキ
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